第2章
早朝六時、東京の街頭はまだ薄霧に包まれていた。
トレーニングウェア姿の松島桜の額には、朝陽を浴びて汗が煌めいている。
彼女は丹精込めて作った弁当箱を高橋隆の寮のドアの前に置くと、踵を返し、その唇の端に気づかれぬほどの弧を描いた。
大学時代、松島桜は毎朝四キロのランニングを欠かさず、ついでに男子寮まで朝食を届けていた。
「さくら、俺はお前を好きにならないから、こういう余計なことはやめてくれ」
高橋隆はかつて寮の入口に立ち、眉を顰めて彼女にそう言ったことがある。
松島桜は俯き、瞳には絶妙な塩梅で涙を浮かべた。
「わかっています。ただ……友人として、あなたの健康が心配で」
高橋隆は溜め息をつき、弁当箱を受け取ると、背を向けてドアを閉めた。
松島桜はその場に十秒立ち尽くし、廊下に誰もいないことを確認すると、口元の笑みを素早く消した。
彼女はスマートフォンを取り出し、インスタに『朝のトレーニング終了』と投稿する。朝のランニング中の自撮り写真を添えて。
三分と経たないうちに、高橋の両親からの「いいね」が約束通りに付いた。
松島桜はスマートフォンをしまい、顔には再び柔らかな微笑みを浮かべる。この芝居はもう一学期間も続いており、高橋家と松島グループの企業提携は順調に進んでいた。
「本当に馬鹿な人」
彼女はそう呟くと、再び歩き出し、残りの二キロを走り終えた。
「本当に彼を私たちのグループに入れるつもり?」
クラスメイトたちが松島桜の決定に疑問を呈した。
「彼は最近調子が悪いけれど、私は彼の能力を信じているわ」
松島桜は微笑んで応え、その視線は教室の隅で落ち込んでいる高橋隆に向けられていた。
中島くるみが去ってからというもの、高橋隆は授業をサボり、煙草を吸い、喧嘩に明け暮れ、挙句の果てには暴走行為で前科までついていた。
松島桜はそのすべてを目の当たりにしながらも、不満の色を一切見せなかった。
その夜の居酒屋、高橋隆は酔って松島桜の肩に倒れ込んだ。
「さくら、お前はいつも影から俺のために尽くしてくれる。もうお前を裏切りたくない」
彼は涙ぐみながら、呂律の回らない口調で言った。
松島桜はそっと彼の背中を叩く。しかし、その眼差しは恐ろしいほどに冷静だった。
翌日、二人は示し合わせたかのように昨晩の告白には触れなかった。だが、高橋隆が松島桜に向ける眼差しには、いくばくかの罪悪感と負い目が加わっていた。
「高橋家の息子はもうダメだ」
松島千代子は茶碗を置き、鋭い視線で娘を射抜いた。これは松島桜が大学三年の年、高橋隆が六本木で問題を起こした後の、家族会議でのことだった。
松島桜の唇が微かに綻ぶ。
「望むところですわ」
「千代子さん、隆君は最近とても頑張っていますよ。起業プロジェクトも順調に進んでいます」
翌日、母に付き添い高橋家の両親と会った時、松島桜の声は柔らかくも毅然としていた。
高橋家の両親は満足げに視線を交わした。
松島桜が周到に設計した一つ一つの行動は、松島グループと提携関係にある周囲の人々に良い印象を与えていた。
そして高橋隆、この自信過剰な愚か者は、彼女が自分のことを『塵の中まで卑しく愛している』とでも思っているのだろう。
大学卒業後、松島桜の陰ながらの助けもあり、高橋隆はまっとうな道に戻った。高橋家は巨額の資金を投じて彼のビジネス界での道を切り拓き、彼のインターネット関連のスタートアップ企業は渋谷区で足場を固めた。
松島桜はオフィスに座り、助手が集めた高橋家の裏情報をめくっていた。
粉飾決算から政府役人への贈賄まで、これらはすべて彼女の最後の復讐の切り札となるだろう。
「当初は確かに彼に好意を抱いていました」
松島桜は佐々木健に言った。
「あの頃の高橋隆は『優秀で決断力がある』人でしたから。でも今は……」
彼女の視線は監視モニターに落ちる。
高橋隆が、アメリカから帰国したばかりの中島くるみと会社の廊下に立っていた。二人の身体的な距離は親密そのものだ。
「彼への本当の気持ちは、中島くるみが初めて現れた時にとっくに終わっています」
松島桜は静かに言い、指でデスクを軽く叩いた。
「でも、これも望むところ。私の復讐計画の一環になりますから」
銀座の高級料亭で、高橋隆は片膝をつき、松島桜にプロポーズした。
「やっとわかったんだ、さくら。君が俺の生涯で唯一の支えだ」
松島桜は微笑んで頷き、その瞳に勝利の光が一瞬きらめいた。
プロポーズの翌日、中島くるみがアメリカから帰国した。高橋隆は松島桜が中島くるみを傷つけるのではないかと心配し、二人が会わないよう細心の注意を払っていた。
「高橋君、私を甘く見すぎよ」
高橋隆が中島くるみを秘書として雇ったと知った後、松島桜は佐々木健にそう囁いた。
彼女はある番号に電話をかける。
「佐々木君、今夜、大事な晩餐会に付き合ってもらうわ」
佐々木健、このT大卒のエリートは、高橋隆より気遣いができ、優しい。家柄は高橋隆に及ばないが、『永遠に私を超えることはない』。
松島桜は窓の外に広がる東京の夜景を見つめ、唇の端に冷笑を浮かべた。
高橋家の没落は、もはや時間の問題だった。










